2017年05月31日

金承福と一緒に韓国文学を楽しもう! ー第2回「韓国の文学賞を知る」

韓国文学づいてます。
神保町のチェッコリで開催されているイベントに、こっそりお邪魔しております。

3月には、第1回『韓国の文学史を知る』と題した会があり、今回は、その2回目。

今回は、1回目のときに感じたことも一緒にまとめてみようと思います。

文学作品が誕生・発表された時代を感じると思うのは、後世の読み手だけれど、同時代の人々にとっては世相に対するメッセージであり、警鐘や共感を文字で伝える社会生活を営む上で、無くてはならないものだと言うことをしっかりと感じ取った会でした。普段、小説は出たばかりの時は読みません。それは、世間というものに対する感度が鋭く、先見の明がありすぎる作家たちが描き出す世界は、私にとってはどのような作品でもあまりにも強烈で、読んでいてその世界に飲み込まれそうになったり、振り回されてしまうから。何というか、時間が経過してから読むというのは、作品の持つトゲトゲしさが少し穏やかになる、熟成するのを待つ感じ。別の表現をすると、読み手である自分が今という時代に追いつくのを待つ感じでしょうか。

韓国で本屋に行くと、詩が読まれている国だ、と感じます。比べるようなものではないけれど、フィンランド以上に詩という形態が愛されている、より身近な存在のように感じられ、いったい何故なのだろう、と常々考えていたのだけれど、社会体制に対する批判を公然と表現できなかった時代に、それでも何か伝えたい、という現実をかいくぐるための一手段だ、ということに気づかされ、詩という形態に求められる必然性に納得。読み手の想像力に大いに依存し、且つ、想像力を大いに刺激する、それが詩の強さだと思うのです。小説だって、読み手が空想して読み進めていることは間違いなしなのだけれど、ちょっとその刺激の出所が違うのかな。

そして、2回目の今回は韓国の文学賞のこと。
文学賞を獲ったからと言って、かならずしもその後も作品を書き続けている人ばかりではないとか(この辺りは、日本も同じ?)文学賞の賞金が高いのはなぜかとか、日本の文学界との違いが話題になっていたのも話の流れとしては興味深かったです。作家の生活を支えるための文学賞…というような言葉もあって、フィンランドともちょっと似ているなぁと思ったりしながら聞いていました。

もっともうらやましいなと思ったのは、どんな風に作家デビューをするのか、という仕組みの説明の中で、大学に文芸作品の書き手となることを目的とした専攻があるということ。フィンランドの大学の人文学部も、言語学専攻、文学専攻の他に、文学翻訳という専攻科があったのは、驚くと同時にうらやましくて仕方のないことでした。それだけでなく、ただひたすらに、多くの作品を読みこなし、研究するという仕組みになっている国文学専攻での講座内容にも魅力がいっぱいでした。
哲学を語れず、文学に興味を持たない科学者は信用できない、とか、文学を読まない指導者(狭い世界だと職場の上司・同僚も含む)に魅力は感じないなどとこっそり思っている私としては、大学という国の最高学府に、まともな形で文学や哲学について学問する場所が用意されていることこそ、国がとても健全であると根拠の一つだと思っているので、羨ましいことこのかた無しです。

フィンランドの場合、作家になる前は、学校の先生という経歴の人が異常に多いのだけれど(もしかすると、そんな人ばかりと言っても過言ではないかも)、日本とはかなり違うし、韓国の作家さんたちが二足の草鞋を履いている時代のもう一つの職業って何なのかな、ということにも興味がありましたが、恥ずかしくって質問できず…いつか、どこかでこんな傾向があるかもしれない、というお話が聞けると楽しいなと思いながら会場を後にしました。

posted by みほこ at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとり言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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